ライブ聴衆の体の動きについての考察

こんばんは(おはようございます)。地理人です。

「地理人が地理とか、都市とか、旅とか、の話をするのが普通すぎる!」というツッコミが上がってきても不思議ではありません。なのに、誰もそのようなツッコミをしません。きっと私に興味がないんでしょう。仕方ない、私が代表してそのツッコミをします(自給自足)。

・・・というわけで。

「地理人が地理にまつわる話をしても、そんなの予想通りだ」

まったくです。突然ですが話を地図に戻すと、地図は万物のビジュアル目次なのです。万物を見てこそ、です。幅広い人間関係の中であらゆる経験をし、それを消化して目次を作るのが地図作りでしょう。

前置きが長くなってスミマセン。
昨日は友人のライブに足を運びました。

ライブ?

いわゆる音楽の演奏です(※この注釈は9割以上の人が必要としない。大抵知ってます)。私は自発的にライブに行かないのですが、友人がライブに出るよ、来てね、と言えば半分くらいの確率で行くことになります。実に1年ぶりでした。

P1390131A

・・・ほら、ライブでしょ◎

ちなみに曲はジャズとかフュージョンとか洋楽とかJ-POPとか幅広く、でした。(スミマセン雑で・・・私、音楽ジャンルを詳しく知らないのですよ〜)

うまいか下手かで言うと、えっと、かなりうまかったです。ドラムもキーボードもギターも声も。ええ。私が音楽を語るのは100年とは言わないまでも数年早いので、別の視点からバンドとライブについて切り込んでいきたいと思います。

私の(小中高時代の)友人は、写真では左の影で見えない所にいますが、その後理系の大学に進学し技術者となっています。このバンドはその理系の大学で結成されたもので、卒業後数年続いているようです。「バンドマンはフリーター」という偏見を打ち破るほど、社会適応力に満ちた、頭脳明晰な感じのする黒髪のギタリストを後列に抱えています。前列のエネルギッシュな歌い手達も彼らの友人知人で「会社が同じ」「大学で交流があった」パターンのようです。

もうすっかり会社適応力をなくした私からすると実に輝かしい・・・

さて、1年前はうちのシェアハウス(といっても住んでいる本郷ではなく吉祥寺のほう)の住人がゴスペルを始めたらしく、「ライブするので来てください!」と言っていたので、吉祥寺住人とともに行きました。

椅子はなくスタンディング。「さぁみなさんも!」と、拍手だけでなく、場合によっては一部メロディーの復唱や腕の動きを求められたりもします。控えめに最低限の同調を果たしましたが、たまに大物歌手のライブ映像等を見たりすると、全員が激しく同調しているのを見て「こりゃ行けないゾ!」と思ったりもしました。

今回は、全然イケイケ感のない、どちらかというと完全に「技術者」という感じの友人だったので、体を動かすことのない私をも許容する寛容な場だろう、という安心感で向かいましたが、寛容でした、色々な意味で

P1390179A

今回は椅子があったので、静かに座るということが可能でした。そして静かに座る人もいたので、私も静かに座っていました。着座万歳(イェイ)

しかし注目は前方中央の男性です。ノリノリすぎてスタンディングしちゃってます。メインボーカルの小学校時代の友人らしいですが、体を大きく揺らしてノッており、全体的な熱気上昇にも一役買っていました。(そう考えると、私のように静かに座る民は、相対的に寒気上昇に一役買ってしまうのだ、ということは分からなくもないです。)

P1390160A

このバンドの特徴的なところは、前列・後列ともに中央の人々はパフォーマーとして前に出ていくマインドを持ち、右の人は本当は前に出ていきたいんだけど躊躇気味、左の人々(後に私の友人が隠れている)は、ソロ演奏の部分はシッカリこなすが、前に出てアゲていくというよりは「淡々と自分の演奏をする」という姿勢で、異なるテンションが共存していることです。

私はこれをとても好意的に捉えており、観客席でも、超アゲアゲ男性の存在も、私のような静かな聴衆も許容する場を作っているとも言えます。

安易な拍手や体の動きの同調を要請することで、「みんなが一つになる」方向に持っていき、場の温度を上げていく手法がとられる場合がありますが、それには私自身、静かながら大きな抵抗を持っています。うっかりそれが「音楽の良さ」として語られると、多様性を排除してモノカルチャーに誘導する音楽の使い方に、貧しさを感じたりもします。

ただ、私はこのテキーラを5杯飲んだと言うアゲアゲの男性と寛容な場のお陰で、ライブで体を動かすことについてシッカリ考える良い機会を得ました。

私のような腰の重い層にとっては、ライブ中に体を動かすことは「周囲と同じ動きをとる」同調圧力に屈することでした。周りの動きを見て、周りのノリ具合を勘案して最低限問題のない動きをとることで、最低限の居場所を得るのです。しかし、周囲が着座しているときに体を激しく動かすアゲアゲ男性には、全くその流れは見受けられません。なにしろ、周囲は座っているのですから。

そこで、本質的なことに気づきました。彼は周囲ではなく音楽に同調しているのだ、と。そりゃそうだ、って話なんですが、それを疑いなく素直に実感させられるほど、彼はノッていたのです。神経に音やエネルギーが注入され、何かの中毒にハマったように体がピリピリ動いているのは、音が体内に入って共鳴しているのだろう、とも思いました。

拍手や上半身を動かすことについて、1年前のシェアハウス住人は「自己解放」と言っていました。それについては、私は納得いっていなかったのです。静かに着座していると、重いものを抱えて解放できてない状態だ、と言われているようでもあり、何も考えずに周囲と同じ動きをとれば何かが解放される、と安易に促されているようでもありました。

私は極度のノンアルコール主義者なのですが、「アルコールを注入すれば楽になる」という安易な啓蒙が、私のアルコール嫌悪感を増した結果、アルコールを注入せずとも感覚を解放し、ストレスフリーになる術を身につけるに至ったのでした。(ちなみに他人のアルコール注入には寛容なので、飲んだほうが楽な人には積極的に飲んでほしいと思っています。それはそれぞれの「自己解放」なので。)

P1390174A

話が脱線しましたが、今回、このライブ中に体を動かす現象の本質が見えました。

共鳴体である、ということです。

ピアノの調律や、ラジオのチューニングのように、音楽を体内に注入するための身体的調律、チューニングが整えば、体は動くのです。それはすなわち、音楽の旋律やコードではなく、むしろそのエネルギーに敏感になり、体がゾクッと来たときにどの部分がどう動くか、ということの型が身につくと(言い換えれば慣れると)体は動く、ということです。

冒頭で私は「音楽は知らない」みたいなことを言いましたが、クラシック寄りのジャズやイージーリスニングは好きで、絶対音感みたいなものもあって、旋律やコードには敏感なのです。耳コピのミスに敏感ですが、逆に合唱のハモリがピタッと揃うと「おおっ(ゾクッ)」と来たりもします。そうだ、それだ。

鉄道関係者が、何か進めようとするとおのずと人差し指が動いて指差喚呼するように、ライブ慣れした人も人差し指がおのずと動くのでしょう。直線的に動く鉄道関係者の指差喚呼と、曲線的に動くライブ聴衆の共鳴は、ひとつ対照的でもあり、共通点もあるような気がして、微笑ましい学びを得られました。

そういえば、中学校時代に音楽の授業の前後にピアノで色々弾いていたら、音楽の先生に目をつけられ、今回壇上にいた友人とともに吹奏楽部の欠員補助になっていました。定期演奏会?の数曲で部員が足りず、マリンバその他色々な打楽器を担当することになってしまったのですが、私はあまり表に出たくなくて終始あまり見えない位置(影)にいました。彼も当時そのようにしてましたが、今日も影・・・。でも、そこまで影にいたい訳でも、表に出たい訳でもなく、(淡々と)演奏をしたい、という感じだったので、シンプルで良いのではないかと思います。

対して私は、そもそも演奏したくないことに気づいて、ピアノをやめ・・・何というか、パフォーマーになることには抵抗があるのかも知れません。人前で話すのは全く緊張しないのですが、得意な表現はパフォーマンスすることに抵抗がなく、逆はそうでもない、んですかね;

ちょっとそのあたりはよく分からなくなってきたので、おいおい考えることにします。

SNSでシェアする。