空想地図をめぐるアートと孤独のおはなし

さて。今日は川口市でイベントなんですが、意外と早く準備が終わったので(いつも準備を直前に詰めているのがバレた)、いろいろ考えたいと思います。

本日はアートと孤独のおはなしです。

地理人のアクションのボトルネックを図示

先日「次の山が見えない」投稿をしましたが、平均すると「いやいや充分見えてるじゃん」という感想が得られました。
いやいや、まだ足りん!問題は「より全体感と具体性が見えないと動けない」という問題が、私のボトルネックになっていることです。その構造がわかりにくいので図にしてみました。

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何かを叶えてステップアップする人を観察する限り、小さな目標というか、何か叶えたいことがあります。
「有名になりたい」とか、シンプルに「本出したい」「テレビ出たい」「展示したい」とか…。あとシンプルに「儲けたい」とか、「アッと言わせたい」とか。これをシンプルに「欲」とします。

その衝動のために、少し背伸びをしたり、人を巻き込んだり・・・広く言えば行動ですが、そのファーストアクションは「体当たり」的でしょうか。

実はその2つが、私は使えず(欲はない…あっても簡単に消せるわ、体当たりは全くできないわ)なのです。

やる気があるのは、「作る」ところまで
空想地図も、その他のイロイロも、作るところがピーク。それをアウトプットするとか、売るとか出すとか…は、めんどい。いやぁ損な人間です。コレ、ほっといたら食えないんですわ。私がほっといてやるのは「作るだけ」ですからね。

ただ、考えたり作ったりということに、ほとんど負担はありません。無尽蔵とまでは言いませんが、人が負担を感じるレベルでも全然平気です。
経済学で言うところのリカードの比較生産費説が好きなのですが(分からなくていいです)、不得意なところを伸ばすよりも、得意なことを伸ばして不得意なところをカバーするほうが生産性は高く、私にとっては現実的なのです。0という数字に2を掛けても3を欠けても0ですしね。

というわけで、この「準備」を重ねて重ねて、もう動けるよ、色々叶えられますよ、そのほうが食えますよ、そうしないと食えませんよ、という状況にして行動を促す、というのが私の動き方、というか動かし方です。
まぁでも、あの投稿を書いた前後(次の本の企画が決まってから今に至るまで)「地理情報の編集」という単語を言いまくった結果、その方向に向かいそうで、動かしようによってはそうできそうな匂いのするプロジェクトがやって来たりしました。これが越えるべき一山か…と。怠惰な私に「あれ、結構大事な山だよ?ちゃんと向き合ったほうが良いよ?」と発破をかけております。

孤独はしょうがない(らしい)。

もうひとつ。

研究の人は研究者としての発展経路を、編集の人は著者としての発展経路を、芸術の人は表現者としての発展形路を成功への道と信じ、いざないますが、(いろいろ割愛しますが)現時点での私の要素を活かすとどの道にとっても中途半端で、私に先はないと思っています。だからこそ、こうした複数のアウトプットを一つの契機にしながら、「地理情報の編集・デザイン」を活かす枠組みを作っていかねば、と思っているのです。

以前から、表現と著述と研究と社会活動と勤めのいずれサイドもフラットに関わりつつ、そのどこにも没入せずに「どのプラグインにもアクセスできる中間の無人地帯」にいてやっと生きてきた私にとって、ロールキャベツ…じゃなかったロールモデル(師)なき孤独感を得ていました。が、ここから先はさらにそうだなと思ったのです。

ただ、ある人と話していて「その孤独、順調じゃないですか」と言われまして。
前例のない価値を生もうとしている者は(その価値が誰も見えていないから)孤独だと。私もそうだ。」と。

確かに、そりゃそうだなと思いました。何よりその人もそうだと言っているのは説得力がある。それはある意味納得しました。
孤独の話は納得したのでここまでです。笑

地図はアート作品になるのか

続いて、ここ1週間はアートに触れた1週間でした。
(展示2回もして、空想地図「作家」とか名乗って、そこそこアーティストっぽいのに)アートに積極的に触れようとしたことがなかったワタクシ。
あいちトリエンナーレと、瀬戸内国際芸術祭に参りました。あいちは私1人で、瀬戸内は主に母親を連れて行くためでしたが、ついでに私も楽しみました。「芸術って思っているより可能性あるんだ…」思ったので、そのことはまた追って書きます。

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あいちトリエンナーレのメイン、ジェリー・グレッツィンガー「Jerry’s Map」(いわば空想地図)。
うまく言えませんが、地図ができる表現の可能性は「思っているより大きいんだな」ということを感じたのです。そういう意味で良い刺激になりました。

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公式ガイドによると、彼は30歳で作り始め、「アートという意識はなく、地図が好きでただただ作っていった」とのこと。歳を重ねて抽象的になっていったらしい。この過程も興味深いですね。ちなみに私の空想地図については、「作品」と言われることに抵抗がありました。落書きの延長で作った「地図」という認識であり、私も何かを狙って作った訳でも、アートの範疇に入るものだとも思っていなかったからです。そういう意味では私の認識とも重なるところがあり、共感したのです。

ちなみにこの地図を見て、「私もアーティストになろうかな〜」とかいう、実に雑な希望を持ちました。

ちなみにその雑な希望の内訳ですが・・・
私は地図を「あらゆる地理情報を内包できる書式、言語」として好み、そのためのデザインの工夫にも惹かれていました。つまり実用的な工夫とその結果を追いかけていたのです。しかし、この作品はそれとはまた異なる可能性を提示してくれた気がする、つまり地図に実用性と異なる表現の可能性があり、地図が、既存の(狭い)地図趣味の枠組みを越えて、地図の可能性が拡がる機会というものを見て、これまた可能性を感じた、ということです。

アート界隈とは仲も良いし、彼らからすると空想地図は何かしらの表現であるらしいのです。私も多少柔軟になって、作品と言われても「そうとも言える」と思うようになり、2回ほど展示もしました。とはいえ着地しないモヤモヤ、違和感はあったのです。

なるほど、私の中で何がひっかかっているかが分かりました。私はただ「実用性のため、多くの情報を重ねて見やすく見せる追求をしていたに過ぎない」のです。なので「市販の地図」に近い形態になった。しかし実際は、実用性や明確な優先順位、正確なデータに基づかない情報や要素を内包することができ、色だけでなく材質や質感、厚み…等、工夫の余地はあるのです。例えば、ツルツルした印象の場所と、ざらざらした印象の場所を、それぞれ適した材質を探すことや、透明水彩等、システマティックではなく感覚的ながら「重ねる」ことのできる画材もある。データや感性等複数の要素を複数レイヤーで「重ねる」こともできる。こうして次の「未踏の可能性」があることが分かったのは大きいでしょう。

地図という書式は、ただ実用的な位置情報ツールを作るにとどまらず、複数の観察結果(データ・感性)を重ねる表現手法として可能性があるならば、アートとしての可能性もあるんですね。そうするとその試行錯誤はかなり幅広くあり、かなりの手間と時間をかけて今までにない形を作れる展望もなくはないのです。

…なんてことを、私も遅咲きで良いなら、40〜50くらいになってからやろうかな〜それまでにちゃんと「地理情報の編集・デザイン」屋として仕事組み立てよ、それによって試行錯誤の余地を生み出そうか、などと、展示を見た後の午後に考えたのでした。

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