さて、最近、空想地図は一体どういう人に楽しんでもらえるのか、A層、B層、C層…などと分類して悶々と考える日々でしたが、昨日居間theaterと話して、また新たなことが見えてきました。
私も居間theaterも、この図中ではマニアックな趣向にあり(先日の図で言うB層)、一般の人からすると取っ付きづらい部類に入ります。また、空想地図よりも人数が多く認知度も高い、鉄道・アニメ趣味、演劇についても、馴染みのない人からは少しアプローチしにくい世界になっています。(友人・知人がいると近づくことがあるが、そうでないと自発的に入りにくい)
空想地図については、かなりニッチな部類に入るので、ニッチな趣味のニッチなフォロワーが集まるのが自然な流れと言えましょう。コアな人が好むのは良いのですが、逆にコアなファンが強力になり、地図に詳しくない人に対する排他性を生むのは望ましくないだろう、とも思います。
私自身、展示やイベントについては、「言われたら、やる」という、超受動的な姿勢をとっていました。別に嫌ではないけど進んではやらない、という感じでした。地図その他、いろいろなものを作ることや人に話すことは好きですが、それを「多くの人に知ってほしい!」「多くの人に見せたい!」という自己顕示欲を極力排除した末にいまの地理人が出来上がっているため、ピンと来ない限りアウトプットするのもなぁ、という感じでした。
比較的ニッチな趣向を持ちながら、私自身いわゆるマニアの人間関係の中にいなかったこともあり、コミケに行くマニア層の心情はあまり分かっていません(今や知人もいますが、最近のことです)。なので同人誌というもの、およびそれが集まる市場への親近感がなく、心理的にはどこか遠いところ、という認識があります。そういう意味では私は日常一般界(C層)の感覚なのかも知れません。
ただ、私が深く理解できる分野(公共交通とか)の、出来上がった冊子等の制作物を見ると「これは興味深い!」と思うものが多々あるので、同時に私は比較的マニアックな趣向(B層)を持ちあわせているのだと思います。ただ、それをA層の文脈で展開するのは、感覚的に馴染まない部分があります。
あと、私を過大評価する人の中で、私が大衆受けするコンテンツメーカーとして、マスアプローチを果たす、と目する人もいます。私は自分自身の価値が全く分かっていないので、それが過大なのか過小なのか分かりませんが、私にたとえ大きな価値があったとしても、これは疲れるな、と思います。
現段階では「テレビや雑誌が一時的なおもしろネタとして取り上げることもある」くらいですが、継続的に、不特定多数に注目され続けるためには、並々ならぬ自信を持って自身の情報を発信し続ける必要があります。たとえば「おもしろいからもっと取り上げるべきだ」とか「取り上げてほしい」とか思うほうが疲れます。他にもおもしろいことはあるし、メディアの仕事してる人も疲れないないのが一番なので、彼らが気が向いたときに取り上げるのが良いと思います。
時に炎上しつつ注目を増やし、やがてはプロブロガー、あるいは著名な「作家」「思想家」となるのです。彼らの生き方は逞しく、輝かしくもありますが、私にとってそれは「消耗」だったりもします。(←ちなみにイケハヤ氏を暗に意識した表現ですが、彼、わりと嫌いではありません。いつか高知行こうかしら。笑)
これまで、A層への展開でもなく、C層へのマス・アプローチでもなく、結局私は展開するのが面倒なだけだ、と思っていました。ところが最近の記事でも「C層」をとりわけ意識しているとすると、マスじゃないアプローチを考えているということになります。
前回の展示・イベントではカフェ&ギャラリーでしたが、私が好きなのは誰でも来れる日常空間です。そしてそんな日常にひょいっと棚卸しをするのが、私にとっては楽なことで、かつ楽しい、ということも分かりました。全員の注目を集める必要もなく、共通したコアな知識や感性を持った人にも限定しません。日常の一端で「なんだこれ?」とおもしろがる人に、ひょいっとライトに届けたいのです。
空想地図…が目次となり、いわゆるマニア扱いされるような取っ付きづらいコアなもの(商業施設マニアの商業施設知識などなど、これは実はおもしろい)でも、日常に生きる人には、時にスパイスとなり、時に栄養になります。そんな届け方ができるとおもしろいだろうと思います。
ここでは、展開方法について「あの方法はつまらない」と言っているのではなく、人それぞれ、合った展開があるということです。例えばコミケや地下アイドルといった、一定の価値観を共有した層での展開が得意な人もいれば、マス・アプローチが得意な人もいる、ということです。私はどれも異なり、得意な展開なんてないだろう(だから、自発的には展開せず、負担のない程度に求められたらだそう)という感じでした。
それが、似た立ち位置にある居間theaterとの関与や対話を通じて、この図のような全体像が見えてきたことで、私にとっても一つの出口が見えたような気がしています。