空想地図の可能性と、表現活動について

今回の展示は、地図読解力が高い人から全くない人まで楽しんでいただけた、という声が多かったのはありがたい限りでした。また、個人的にも空想地図を何らかの形でアウトプットすることについては、可能性が広がり、これまで蓄積した言語化できぬモヤモヤが、かなり解消されたのが、個人的な収穫でもありました。

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「作家」「表現活動」について

今の私の名刺には「空想地図作家」と書いてあります。今や作家と称されることに抵抗はなくなりましたが、もともとそれは本意ではありませんでした。他者からそのように紹介されるため、整合性をとるためそうした経緯があります。

私が作家を名乗ることへの違和感の内訳は、作家への反感や抵抗ではなく、単に私と(いわゆる)「作家」との差がとても大きい気がしていたことに起因します。また、作家を「恐れ多く」も思っていました。それこそ芸大の院を卒業し、表現活動をしている人の輪の中にいると、ひとり「スミマセン…」と思うこともありました。

作家(表現活動を行うことを主軸に置いている人)は、自らの表現に全力を投入し、それを公開したり、その「作品」を通じて見る人や社会との接点を作る・・・経済活動とは違えども一つの「仕事」のようでもあります。その大義のために、作品に全力を投入し、作品の価値を高め、展示や公演等をしています。

対して私は、もともと「落書きの延長」で始めたことを続けている自覚しかなく、「作品」と言われることに抵抗がありました。人から「この作品は…」と言われると、「作品じゃないです、ただの地図です。」と返したりもしましたが、それは謙遜ではなく、何が「作品」なのかが分かっていなかったためです。今では第三者目線でこの空想地図制作を解釈すると、作品と言うこともできるので、納得はしました。

「できちゃった地図」

しかし、私は空想地図制作に全力を投入しておらず、これからも全力を投入する気はありません。私が必死に、空想地図に対して「これは私の全てだ!」とばかりに一極集中すれば、そこには経済活動以上の意味を付与したり、他人から否定されても跳ね返す程度のプライドを身に纏う必要もありそうです。しかし、そこまで意味のあるものではないと思っています。

変な話、空想地図はなくても世の中は回るのです。私はこういう「なくても良いような無駄」「誰もやったことがないこと」「誰も期待してもいないこと」「やったところで役に立たないこと」を試行錯誤するのが元来好きでした。「どうなっても良い」(完成しなくても評価されなくても良い)という気楽さから、自由に空想地図制作を始めたのだ、と思います。

高い意識で作ったものではなく、生み出されてしまったもの・・・「できちゃった婚」のできちゃった状態に近いと思っています。いわば、「できちゃった地図」なのです。

また、その「気楽さ」は、地球上の(現実の社会関係における)利害に左右されず、空想測量の精度を上げるものとも思います。第三者目線で世相を見つめる「空想測量人」として地図を描き続けるのが、ある意味ミッションだとも思っています。

「空想地図」が呼び起こしたこと

そんなこんなで、もともとは一人で試行錯誤するおもちゃのような空想地図でしたが、周囲の人に見せる中で、私が作って楽しむ以上の、意外な効果もありました。

ひとつは、「ニッチな知見や興味を持った人がハマる」ということ、もうひとつは「全く地図に馴染みがない(興味がない、読めない、嫌い)という人が食い入るように見る」ということでした。

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前者は私の予想を上回る勢いでしたが、それでもまだ少し想定していた話。後者はまったくの想定外でした。これは今回の展示での1コマですが、女子大生が地図を食い入るように眺めています。老若男女、地図への親近感がない人も、数分と言わず十数分、地図の前から離れない光景も珍しくありませんでした。

そして彼らの多くは「市販の地図、実在の地図は、やはりそれでも興味が無い」と言います。実在の市販の地図を食い入るように眺めていた私からすると、ひとつ理解が足りていないところで、「地図にはなくて、空想地図にあるもの」を考える契機になりました。

私が推測するに、
・現在地と目的地がないので、いつもの(目的の点と線を探す)「地図」の使い方から解放される
・現地を知る人がおらず、想像力でしかエントリーできないおもしろさがあり、正解がないから自由に想像できる
(逆に現実の都市は、正解があり、いくら想像しても、正解や実態をつきつけられると想像は無駄なものとなる場合がある)
ということでした。

「空想地図」がつなぐもの

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さきほどのひとつは、「ニッチな知見や興味を持った人がハマる」層と、「全く地図に馴染みがない(興味がない、読めない、嫌い)という人が食い入るように見る」層の話ですが、もっと明確にするとこのようになります。

鉄道やアニメ、ゲームは、もともとニッチな趣味でしたが、人口も多く、比較的メジャーな趣味になっています。私は行ったことがありませんが「コミックマーケット」というニッチ趣味の祭典の中のメジャーコンテンツにもなっていると思います。ニッチ界のメジャー、いわば「最強の地下アイドル」でしょうか。

空想地図も、こうした「ニッチ趣味」の芽が出たものとして見られる動きがあり、同人趣味の文脈に吸収して発展を願う動きも多少感じられます。しかし、B層の小さな丸だった空想地図が少しずつ知られることで、大きいな丸になることに、私はおもしろさを感じません。むしろ、この「小さな丸同士を繋げるもの」として機能していることが興味深いのです。

地図を前に、地質調査の仕事をしている人と、インテリア関係の人と、日本語の古語の研究をしている人が、お互いマニアックな興味や切り口地図の中の細部にアプローチし、目線が合う瞬間を提供する、というのは、これまでニッチオブニッチの世界に訪れなかった新しい現象でしょう。

展示会場でも、小さなBを繋げるものとして、小さなBを繋げる目次として機能したなら本意ですし、実際に展示会場の左側にあるのは「小さなB」の制作物です。

いわゆる同人趣味は、作る側と見る側が同じ価値観を共有した小さなコミュニティにおける、自給自足、地産地消に近い現象とも言えますが、ここで満足していると見えないのが図中のCの層です。

「地図に全く興味のなかった層が食い入るように見ている」ということです。実際にこれまで、展示前にも「地図が嫌いな女性が食い入るように見る」例を数十人は見ています。軽く100人以上はいたと思います。それほどまでに珍しいことではありませんでした。ここにはさらに眠った可能性がありそうです。

意外な人にも響くものだ・・・「ニッチが理解できる人だけで消費する」ことは、ニッチ層が閉ざしているだけかも知れない、それは同人趣味の多くの人にも思うことでありながら、私の自戒にもなりました。まず、「地図に興味がない多くの人」の目線がいったい何がおもしろいのかを理解、咀嚼しつつ、そういう人にどうやったらもっと楽しんでもらえるか、これを考えれば、今まで遠かったAとCが繋がる・・・これはC同士が繋がることよりも大きな革命だろうと思っていたのです。

B層は、A層以上にニッチであるためA層より引っ込んでいることも多いのです。
B層も、A層に習って小さくまとまって同人化する傾向もあり、それも構いませんが、日常を鋭く見つめる専門的視座・知見は、多くの人(C層)にとっても価値があり、おもしろいことでもあるのです。

突然現れた「居間theater」

展示の話だけでなく、展示とのコラボレーションの話も、不意にふっとやって来ました。「居間theater」は今回の展示会場「HAGISO」常駐のパフォーマンス集団で、展示とのコラボレーションをしている、と言うのです。よく分からないけどおもしろそうだ、と思いつつ、結果的に意気投合して、上記の「Cを繋ぐ大きな扉づくり」に着手することになります。

B同士を繋ぐ動きは、予想する人もいましたが、Cの動きはこれまで「イベントで話す」「テレビに出る」くらいしかなく、それを期待する声のみで「どうやってCを作っていくか」を一緒に考える人はいなかったため、ある種の孤独を抱えていました。

11/22に「ようこそ中村市!ワークショップ&引っ越し相談会」をしましたが、今回の引っ越し相談会は4年前に構想したまま半ば忘れていたことでしたが、それが急に現実化したとも言えます。

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意気投合しておきながら、実はまだ、居間theaterのことを深く知りません。
さきほど居間theaterに関連するYoutubeを全部見ましたが、表現系の感度の良い人が鑑賞する前衛芸術なのか、多くの人が楽しめるお祭り…にして少々ひねりの効いた何かなのか、全く演劇っぽくない何かなのか、全く統一感がありません。むしろ「表現手法や対象、アイデンティティを固定しない」のはポリシーであるようにも感じます。もっと噛み砕けば、演劇とパフォーマンスという手段を持ちながら、それを劇場の外に繋げる集団、ということではないでしょうか。「パフォーマンスカフェ」は、演劇に興味のある人が集う小劇場での公演ではなく、それを全く演劇と関係ない日常の舞台に出前しているようでもあります。居間をtheaterにするのでしょう。

それは私が、空想地図および地図によって結ばれるニッチな趣味群を、全く地図に接点のない人々にどう繋げるか、という動きと重なります。(本人達に確認すれば良いのだが、あれから会う機会がなくて・・・)

「地図」とは

地図がどんどんマニアックなものになることに、私は違和感も感じていました。メジャーにしたい訳でもありませんが、地図とは私にとって「万物のビジュアル・目次」であるため、ビジネスマンからアーティスト、学生から主婦、老人まで、あらゆる人の生活や事業活動を一覧できる目次のようなものだと思っています。これまで日本の市販地図(都市地図)を作ってきた会社も、広く多くの人に使ってもらうためそのような努力をしているのにもかかわらず、今や地図は単なる「検索の道具」となり、多くの情報が詰まった地図そのものはマニアにとっての栄養分として特化しつつあります。しかし、もっと単純に「多くの人が日常を読み解いて、おもしろさと発見を得られる絵」として地図は再定義できるのではないか、と思っています。そうしてこそ、地図は「万物のビジュアル・目次」としての機能を全うするだろう、と思います。

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空想地図を取り囲む全体像

私はマニア扱いされることも多いのですが、実はそこまででもありません。狭く深くではなく、かなり「浅く広く」です。鉄道の人からバスの人、地形の人から歴史の人まで、「かなり込み入った話まで、通じる話がほどほどにできる」状態ではあります。私は狭く深くを追求するより、あらゆるマニアと「話の通じる人」として、Bを繋ぐ動きはとれるでしょう。

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(さきほどの図を再掲します)

そして私自身、何より「空想地図の一体何がおもしろいんだ、地図が好きって何なんだよ」という感覚を持つ一般市民でもあります。ある種、Bのコンテンツを作る者の中で貴重な「Cの感覚を持つ者」でもあります。

私がこれから地図の範囲を広げたり、街のパーツを増やしたり、地理系技術者っぽいこと(GISなり地形なり3Dなり)をするのが、いわゆるよくある「期待」です。それは気が向いたらしますが、どちらかというとこのB(A)同士、およびB(A)とCを繋ぐ役として何ができるかのほうが、答えが見えていないので気の進むところです。再掲になりますが、「誰もやったことがないこと」「誰も期待してもいないこと」のほうが乗り気になる傾向があります。しかしこれは役に立つか立たないか、無駄か、と言われると、そうでもなさそうです。場合によっては大きな革命が起こります。私の中で、無駄か無駄でないか、役に立つか立たないか、という判断基準がどうでも良くなるくらい、何かおもしろい繋ぎ方ができれば、より地図が本来の「万物の、ビジュアル・目次」として機能すれば、と思っています。

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