前向きなネガティブ・シンキングについて

前向きなネガティブもある

半月前に、「次の山が見えない」という投稿をしました。こうした自省的な投稿に対して、Twitterでの反応は大抵ないものですが(個人的なことだし、だいいち長いしね)、直接の人間関係を反映し、コメントが比較的来やすい青いSNSでのいいね数は極端に少なく、「やっぱり5,000字も書いたら誰も読まんよな〜」(私も大抵読まんし)と思ったのですが、意外とじわじわとコメントがつきました。

あとで、知人が「悩んでいるから単純に暗いと思っていいね押さなかったのだろう」との意見が。なるほど、人ってそうなのか。単純に「ネガティブ」だと思ったのか。

そんな。私にとってネガティブなことはポジティブなことであり・・・意味分かりませんよね。笑

簡単に言うと「ただの結果主義」で、ネガティブマインドで導き出されるシビアな現実や将来に対して、より長期的にマシな方向に導いていくための具体策を考えよう、という、私にとっては極めて建設的な話なのです。「単純で無駄に明るい話」はウソっぽいなと思って咀嚼できないけども、シビアで現実的な話なら咀嚼できる、納得できる、受け止められる。ならば、そうやって前に進もう、という話です。

「ポジティブ・シンキング」はやめたほうが楽

私は「ポジティブ・シンキング!」ができない体質の人間です。ポジティブに考えようとすると、ただ非現実的な妄想として冷める、萎える部分と、ポジティブに行動するためのエネルギーが、極めて大きな負担、足かせになるのです。

しかし後退、落下したい訳ではありません。前には進みたいのです。地底よりは地上のほうが生きやすいので、ほどほどに上昇したいとも思います。自分自身を車に喩えれば、「前進するアクセルを踏んでも前には進まないが、バックだとなぜかスイスイに走る」そういう種類の車です。

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車を180°転回すると、バックで進んでも前向きに進む

私は、簡単に言うと車を180°転回させ、「バックで前に進む」方針をとりました。とはいえ簡単ではありません。バックなんてどの車でも高速を出せる訳がなく、首をひっくり返すので視界もとりにくい…そこそこ高度な運転が求められます。ただ、今までは「押せば後ろに行く」だったのが、「押せば前に行く」に変わることは大きいのです。牛歩でも進む方向が前か後ろか、というのは大きな違いです。首をひっくり返しながら、そこが前なのか後ろなのか、俯瞰で見つめながら針路をとっていく…ということも必要になります。

ネガティブシンキングが得意なのは、シビアなリスクヘッジ

ネガティブシンキングの利点は、有頂天、天狗にはならない反面、悲観的な妄想は得意です。起こりうる危機を想像することは得意なので、その対策さえ考えれば、落下しないためのリスクヘッジを考えるポテンシャルは高いと言えます(あとはその起こりうる危機に感情的に浸らず、淡々とその危機を認識して処理すること)。

自分の評価より、他人の評価を信用する

あと、人の評価より、大抵は自己評価のほうがキツいので、人からの評価で凹むこともあまりありません。自分で自分に期待しないので、大抵の他者からの声は「期待以上」です。自分で自分を肯定するエネルギーを自給できないため、自分が前に進むためのエネルギーを、他者から取り入れる必要があります。

他者からエネルギーを「もらう」のではなく、他者が発する肯定的なエネルギーを「受信」する…つまりガソリンスタンドで石油を買うのではなく、太陽光発電的な発想です。自分がいかに「それを受信するか」の基礎を作っていくと。こうした「人のエネルギーを受け取る基礎」ができてくると、割と受け取りやすくなります。「ソーラーパネルを設置するとより太陽光が当たるようになる」と言うと「ないだろ」って感じがしますが、人間関係においては、割とそんな感じです。

まぁ、これが案外難しいんですよ。狭い道で180°車を転回させ、後ろ向きだけど前にうまく車を進められる実感を得て「前に進んでいる」感が出た後「よかったら何かちょうだい」とか(おこがましくて)言えないので、何気ない関与や接触、感想を取り入れてエネルギーにしていくと。あ、なぜ「何気ない関与や接触、感想」がエネルギーになるかというと、大抵「自分の想定」よりマシだからです。

ネガティブな人間は大抵悪い想像をします。「本当に窮地に立てば、誰も私を助けはしない」という、強い信念のような何かがありました。他にも「誰も私の作ったもの、考えることに価値を見出さないだろう」とか、そんな調子です。で、他の人が興味を持ったり、ちょっとイイネとか言ったとします。それだけで、私よりはマシな評価な訳です。

自己否定力によって、肯定感を創出する

ネガティブシンキングの最大の武器は「自己否定」です。「自己否定をやめて自分を肯定しよう」とか、「冷蔵庫の中でお湯を沸かそう」くらい無理な話です。そのことをポジティブ人間は分かっておらず、ポジティブ人間はポジティブワールドの中だけで生きているのです。まぁそれはそれでいいのです。それで世界は回るし、ネガティブ人間がポジティブの足を引っ張っても世界は良くなるもんでもない。笑 重要なのは「ポジティブ人間のエネルギーは必要、だけど方法(運転技術)は使えないので、その善意だけは受け取って具体的な進言はしなやかにスルーしよう」ということです。

話それました。えっと、「自己否定」が得意、って話でしたね。自己否定を否定するのは大変ですが、自己否定を活用して自身の評価を引き上げることは可能です。他人の評と自分の評、どちらのほうが信用できますか、というお話です。自分に自信がないので、他人の評のほうを信用しがちですが、この傾向を利用します。つまり「自己評価を否定し、相対的に信用できる他者の評価を採用する」のです。否定の否定は肯定ってヤツですね。まぁこれも、他者の評価を咀嚼する必要が出てはくるのですが。

「今日は楽しかったよ〜また会おう!」…また随分フランクな事例を出したもんだと自分で思いますが、ネガティブ人間はそう言われても「っていう挨拶、社交辞令だろう」くらいに思います。100の肯定的なコメントを0と認識するのがネガティブ人間の得意技です。しかしそう認識する自分こそ追い詰めることが可能です。

その人はそれを言ったことで「私と再び会うリスクを助長する」のです。楽しくなかったらもっとマシな社交辞令を言えるでしょう。その人は私より賢いし私よりコミュニケーション力が高いのです(自己肯定感が低いとき、こういう認識はかなり効いた)。「自分自身の全てが楽しくておもしろかった訳でもないし、他に楽しくておもしろい人は色々いるが、その楽しげな人々と似たような人と認識はされたし、今日した話のうち何かおもしろいことがあったんだろう」と冷静な認識をすれば、0でも100でもなく、現実的なプラス20か30かのエネルギーは得られます。無駄な期待をして自制せず、感情を抜いてシビアな認識をするとマシな認識、多少なプラスが得られるのです。自分だけだと生めるエネルギーは0、他人は20か30かをくれる。何とありがたや。

他人のプラスエネルギーのおこぼれを、少しずつ蓄積する

私はそういうことの積み重ねで、前に進んできました。ほっとくと後進するからこそ、かなり慎重に運転してきた結果でもあります。今や「自己肯定感の低いネガティブ人間」だった面影がほぼなくなっているようです。以前はmixi(懐かしい…)で、こうした「咀嚼の過程」を書き連ねていたので、その闇?を知っている人もいますが、その雰囲気は、最近の次の山が見えないの投稿みたいな感じです。

自分でプラスのエネルギーを生むのは難しい。となると周辺からどう取り入れるかを考えるのが現実的です。(最近海洋資源発掘…とかいうニュースがありましたが)現時点では日本は天然資源の乏しい国で、加工貿易でなんとかやってきました。最初はさきほどの例のような「何気ない一言」から少しのエネルギーを吸収し、それを蓄積すると余裕が生まれ、前よりマシになります。前よりできることが増えます。そこから先は加工貿易で、周囲の誰かが必要としそうな、喜びそうな何か(助けなり関与なり)を供すると、また何か「ありがとう」みたいなエネルギーを蓄積します。自己肯定感が担保しにくい人間は、こうして地道に「他己肯定感」を蓄積することや、その流れを作っておくと、無理せず(自分はポジティブにならなくても)前に進むエネルギーを担保できます。

感情的になれば素直にマイナス方向にぐいぐい進みます。いらない感情を抜き、俯瞰で自身を見つめ、淡々と組み立てていく・・・というのが「ネガティブエネルギーを活用しながら前に進む」の内訳でした。えらい自己啓発的な内容になっちまった。へへ。

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